カラーシャ族とは |
カラーシャはイスラム教国のパキスタンではめずらしい非イスラム教徒の少数民族で、人口わずか3千人。NWFP州(北西辺境州)の北部チトラール県のアフガニスタン国境に近いボンボレット谷、ルンブール谷、ビリール谷の三つの谷に住んでいます。 |
カフィールの最後の生き残り |
アフガニスタン東部からパキスタンのチトラール県にまたがるヒンドゥークーシュ山脈の山あいには、昔から独自の信仰と伝統文化を持った人々が住んでいました。周囲のイスラム教徒は彼らをカフィール(異教徒)と呼び、その地をカフィリスタンと呼んでいました。しかし百年ちょっと前の19世紀末に、時のアフガン王にイスラム教への強制改宗を武力で迫られ、アフガニスタン側のカフィールはすべてイスラム教徒にならざるを得ませんでした。そしてカフィリスタンという地名もヌーリスタン(光の地)と改められました。カラーシャはチトラール王国に統括されていたために強制改宗をまぬ がれ、今やカフィールの最後の生き残りとなったわけです。 |
起源 |
カフィリスタンの人たちはアレキサンダー大王遠征軍の末裔だという説もありますが、遠征軍との接点はあったにしろ、その言語、宗教などから考え合わせると、カラーシャを含めたカフィールの起源はもっと古く、紀元前1500年頃にインド亜大陸に向けて大移動を行ったアーリア人までさかのぼるかと思われます。しかしインド人殺しと呼ばれるヒンドゥークーシュ山脈の山々にはばまれて、長い間外部との交流もなかったし、文字をもたない彼らには文献も残されておらず、彼らの歴史の多くが謎とされています。 |
宗教 | ||
|
浄不浄の概念 | ||||
カラーシャの宗教の中で重要な部分が、浄(オンジェシタ)と不浄(プラガタ)の概念です。オンジェシタとは神と関わることができる聖なる存在で、カラーシャの男、水、ネズの木、ワイン、小麦、山羊、はちみつなどが聖なるものと考えられています。その反対に神に対して不浄な存在がプラガタで、女、イスラム教徒、にわとり、女の生理と出産などがそうです。
|
女性の生活 |
女たちはこのために、聖なるものと直接の接触をしないよう、日々の生活活動が制限されてきます。神々が宿る聖域には立入り禁止ですし、生理や出産の時は、家を出てバシャリと呼ばれるこもり小屋に行かねばなりません。祭礼に捧げられた山羊の肉、はちみつも口にできません。水を飲む時は直接コップに口をつけてはならないといったように、たくさんのタブーが決められています。 しかし、美しい民族衣装を身につけ、イスラム教徒の女性のように顔をチャルダーで被い隠す決まりもないし、男性と口をきくのも自由、歌や踊りいっぱいの数多く開かれる祭りを楽しむこともできるなどの理由で、カラーシャの女性たちは神に対して不浄だからといって、卑屈になることはありませんし、男性たちが女性を必要以上に蔑むこともありません。 |
民族衣装 | ||||
|
結婚習慣 |
カラーシャの結婚習慣もユニークで、少女が十代の前半になると、親は彼女の結婚相手を決め、祭りを機会に相手の家に送りこみます。相手の家族と短期間一緒に暮らし、また実家に戻るということを数年の間繰り返し、そのうちに子供が生まれると、はじめて夫の家に落ち着きます。しかしもし、相手が嫌で子供がいなかったら(いる場合もありますが)、他の男性と駆け落ちすることも可能です。その場合は前の夫が妻の家族に贈った結婚の贈り物(家畜、鍋瓶、現金など)を、新しい夫が前の夫にすべて倍返します。カラーシャの半分以上のカップルは駆け落ち結婚で落ち着いているようです。 |
生活 | ||||
生活は農業と牧業。すべての家族が畑と山羊を所有しており、男は山羊の世話をして、冠婚葬祭の時の食糧であるチーズ、バターを作り、女は畑で主食のとうもろこしや小麦を作ります。野菜はあまり食べません。
生活基盤は代々自給自足と助け合いで営んできましたが、1980年代始めにジープ道路ができてからは、貨幣と物が入り込み、しだいに金銭が重要になってきて自給自足制も壊れてきています。現金収入源は山羊を売ることと、不定期に行われる公共事業での日雇いぐらいしかないので、生活は大変です。
|
SEO | [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送 | ||