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Vol.17 2004年11月26日 
―道路が復旧しないわけは?―
 10月の大雪で壊れた道路は、よそはとっくに開通しているのに、ルンブール谷は下流の1ヶ所が壊れたままで、ジープが通らないので、大変に不便だ。谷の人たちは健脚なので、下の町のアユーンまでだって徒歩でなんともないようだが、股関節脱臼だったハンディのある私は、1時間も歩くと1歩踏むごとに太ももに激痛が走り、針のむしろの上を歩いているがごとく辛くなる。(ちょっと大げさか)

 どうしてうちの谷だけ、道路の復旧工事が遅れているかというと、うちの谷に住むバシャラ・カーンが原因なのだ。バシャラ・カーンは金のためなら何でもするという有名な60代後半(?)のおじんである。 話が長くなって申し訳ないが、彼の娘は、ペシャワールの高官に気に入られて、数年間高官の元に住んで派手な生活をしていた。彼女はフライング・クラブで飛行機操縦の訓練を受けたりした後は、自ら、カラーシャの権利向上、生活向上のために戦う闘志だと称し、幽霊NGOを立ち上げ、根も葉もない話をつくってウェブサイトに載せたり、新聞のインタビューを受けたり、外の世界ではけっこう有名人になった。しかし金持ちをスポンサーにして大邸宅を建てたり、海外に何度も渡ったりしているので、カラーシャの内部では不信がられている。カラーシャ女性の命でもある長いおさげをざっくりカットし、民族衣装はアピールするためのユニフォームという形で着ているだけ、冠婚葬祭など共同体の行事にはいっさい参加しないので、みんなは彼女はもはやカラーシャではないとまで言っている。

 その彼女がおととしの選挙の時に、父親をチトラール議会のカラーシャ代表議員候補者に立て、彼女はチトラール全域に自分で自家用車を運転して選挙活動に回った。あの時の議員選挙は、カラーシャにとっては全く不公平で、カラーシャの代表議員をカラーシャが選ぶのではなく、チトラール全地域で選出された480人のユニオン・メンバーが投票するのだ。その中にカラーシャは一人しかいなかった。

 対抗馬は元カラーシャ選出議員で(カラーシャの選挙で選ばれた)、我々のNGOのゼネラル・セクレタリーでもあるサイフラー議長で、カラーシャの誰もがサイフラーの勝利を信じていた。しかし若い娘の選挙活動での甘い言葉がきいたのか、晴天の霹靂とはこういうことか、ウルドゥー語さえもまともに話せないバシャラ・カーンがカラーシャの代表議員になったのだ。

 前置きが長くなったが、10月の災害の後、そのバシャラ・カーンにチトラール地方政府が、谷の道路の復旧工事を5万ルピーでするよう通達の手紙を出した。その手紙を届けた教師のヤシールに、字の読めないバシャラ・カーンが「その紙には何と書いてあるか読んでみい。」といったので、読んであげたら、「ふむふむ、5万ルピーだな。」と満足してポケットにしまい、そのまま毎日山羊の放牧に出ていた。どうも、工事をしないでも5万ルピーをちょんぼできると思ったらしい。他の目立たぬ工事や仕事なら、パキスタンではそれも可能かもしれないが、道路の復旧は住民のニーズが大きいので、そうもいかない。しびれを切らした住民が政府に訴えると、谷の外の人間が工事を請け負うことになった。

 谷の人間ではないので、2人の人夫を使ってののろのろ作業だ。それでも後はセメントを流す作業が残るのみになった時に、工事は中断された。セメントを流し込む際に、政府の技師が立ち合わないと、後からクレームがきて面倒なことになるらしい。その技師は何だかんだ言ってなかなか現場に来てくれないらしい。何のことはない。技師は賄賂が欲しいのだ。1万ルピーぐらいの賄賂をつかませれば、立ち会わなくともクレームもつけないらしいが、そうなると、今度は請負人が安く上げるために、いい加減な仕事をするのは目に見えている。全く悪循環の何ものでもない。一時が万事、政府の仕事はこういうふうだから、パキスタンの国が今後も良くなるとは思いにくい。

 おかげで、うちの多目的大部屋&作業場の建設も足留めを食っている。ジープで角材をアユーンまで運び、機械にかけて平板にしないと屋根が張れないのだ。屋根が張れないうちに雪が降ったら、造りかけの建物が腐ってしまう。そうなるとこちらは大損害で、これはもう、まったく人災としかいいようがない。

―水力発電改善プロジェクトの署名式―
写真は署名式の新聞記事
 11月8日に、草の根無償援助で承認された水力発電改善プロジェクトの署名式が行われた。ただ書類にサインをするだけだということだったので、チトラールからペシャワール経由で前日にイスラマバードに到着。私の後、陸路で当日に着いたばかりのサイフラー議長と大使館の前で待ち合わせて、大使館の中に入る。と、担当の小林書記官は大使館を突っ切って、我々を裏に建つ大使公邸に連れて行くではないか。公邸には何度も伺ってはいるのだが、今回は何と何と、パキスタン人の新聞記者が10人ほど待機していた。予期せぬ セッティングに内心あわてる。

 すぐに、新しく赴任されたばかりの田中信明大使がお見えになり、挨拶もそこそこに、大きいテーブルの真ん中、大使と並んで座らされる。日本国の日の丸が施された分厚いカバーが広げられると、我々のプロジェクトの契約書があった。そこにサインするよう小林書記官から言われたので、緊張して少しばかり震える手で大使館用とこちら用との2枚の契約書に署名したのであった。それを田中大使とお互いに交換、そこで握手。すると新聞記者たちのフラッシュがパチパチパチと立て続けに光る。カメラのためにしばらくそのままのポーズで1〜2分。最初は自然の笑顔だったが、笑顔のまま長くポーズしていると、口の端っこがぴりぴりしてきて、うっかり「もういいかい」と言いそうになった。

 こうして、署名式はあっという間に終わり、その後は大使としばらくお話をする。とても気さくで話しやすい
大使はつい先ほどインド寄りの山の町スカルドゥから戻っていらしたばかり。「いやあ、大変なところでしたね。人間と家畜が一緒に住んでいるのも問題がありますね。」と話された。私は、「カラーシャは家畜と同じ部屋で生活するようなことはないですが、確かに衛生観念があまりなくて、それで病気になることもあり、問題ですね。」「それでも、10年前に日本政府の援助で電気がついて、家の中がかなりきれいになりました。」と言うと、サイフラー議長が「以前は家の中は真っ暗で、誰が座っているのかもわからないぐらいでしたが、電気がついてからは、女性たちは家の中で家事だけでなく、織物を織ったり、服を縫ったり仕事ができるようになり、とても助かっています。子供たちも家で勉強できるようになりました。」と続けた。

 「それはいいことですね。日本の援助金が役に立っていれば、こちらも嬉しいですね。援助を受け入れる側に、わださんのように、日本人がいてくれるとこちらも安心です。」と大使に言われて、期待に応える仕事をせねばと心に思う。

 私ごときが署名しただけではたいしたニューズ・バリューはないから、載ってるかなと、翌日の新聞を見てみると、英字新聞3紙に写真付きで、けっこうでかでかと載っていた。谷からの徒歩ということも考慮して、編み上げの古靴に、数年前に自分で縫った古シャワール・カミーズ、100ルピーのショールと、とても正式の場に出るいでたちではなかったが、新聞の写真ではそこまではわからず、ほっとした。

 日本政府から援助が下りたとわかると、公私混同が当たり前の周囲のチトラール人やカラーシャたちが、「アキコが日本からお金いっぱいもらった」と勘違いするのを、いちいち説明するのが大変だ。「私はこのプロジェクトを申請するために1年間、ボランティアで働いてきてるんだからね。このお金は水力発電所を造り直すためのもので、大半は機械の購入に使うもの。地元の人も、石や砂運びはボランティアでやることになってるんだから。」

 実際、タービンや発電機などラホールなどから購入する機械類は日増しに価格が上がっているのに、今急いで買いつけしても、ラワリ峠がもう閉まる時期に来ているので現場まで運べないので、春まで待たねばならない。春に急激に値上がりでもしていようもの、予算オーバーになるのでは、など心配はつきないが、20年間持続できる水力発電所を完成させ、維持していくためにがんばらねばならない。(終)
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